2023年3月1日。いよいよ6季のはなのみちも修了の日を迎えた。今季は修了者13名、そのうち半分以上が皆勤賞で7名(後一回で皆勤だった方も2名)。皆勤賞7名は、これまでの最多記録。全12回とはいえ、1年休まずに来てくださることは本当にありがたいことだと思う。
3月は新暦の雛祭りのあと、啓蟄、3月11日の震災の日、そうして春のお彼岸が続き、ヨーロッパでは移動祝祭日で4月になることもあるけど、イースターもある。
毎年3月は僕が震災の後始めた「めぐり花」という花の連句でお稽古を締めて、簡単な修了式をする。「めぐり花」をはじめるきっかけは3月11日に起きた東北大震災だ。その日から10日後のお彼岸にようやく当時借りていたビルの屋上にある温室に花を抱えて上がった。代官山というちょっと高台に建つビルの屋上にある温室からは空が見える。その場所で花を手向けよう。水を張った水盤に映る空をしばらくみていた。花を活けようと思ったけど、気がつくとその水面にただ花を千切って散らす、散華することをひたすらやっていた。そのようにしか体が動かなかった。そうして散らされた花びらや、花首が、津波によって攫われ、沖に流されていった人たちのように見え、それは海に浮かぶ多島海列島である日本列島そのものと重なった。そうして「花綵列島」とこの島が呼ばれていたことを思い出したのだ。3月11日は、花を活けるという鎮魂と深く繋がっている。
浮いた花々は、流し雛の映像とダブっている。遙かな青の世界に、雛の小舟は漂って、淡き世界に消えていく。しかしその「霊(ひ)」は海の彼方で生まれ変わり、再び打ち寄せる波や風、天からの雨や雪となって恵みをもたらしてくれる。ひとがた、形代とは切ないものだが、春を迎えるには身を濯いで清め新しい心身として交わることが礼儀だったのだろう。
古来より若々しさの象徴である桃のふっくらとした蕾、雪洞のような菜の花の黄色、母の名のつく貝母百合(バイモユリ)。入り口で選んだ虎屋さんのお菓子「仙壽」「蛤形」「下田の春」によって「桃」「蛤」「菜の花」の3チームに分かれ、めぐり花した。
活けられた花はいつでも依代となる。見えないスピリットがやってきて戯れるお祭りとなる。本来は野山や渚でひな遊びをして、自然の息吹きそのものや、振動している大地のエネルギー、空からやってくる光を纏い、再生する祭りだった。
日々に自然の息吹を持ち込み、神そのものを暮らしに持ち込むようになった。遠くのものを小さくして手元に寄せる=「引き寄せ」という技術。都市や建築と深い繋がりを持つ。作庭も活花も、空間の要請でもあろう。小さな欠片から、僕たちは想像力の翼を羽ばたかせる。春になって目覚めかけの、生まれたばかりの小さなかけらを皆「ひな」と言い、素朴で本源的なものを「ひな」と呼ぶ。大人になれないもの、片割れのまま、漂うもの。生きる人もまた片割れ。忘れてきたものを求め、語らう。
小さくした自然を引き寄せ、その欠片に触れることで感染し、蘇りを果たしていく。傷んだ心や燻んだ身体は洗い流される。花は空間を清め、穢れと共に去る。
花とある時、季節のめぐりをその身で感じ、共にめぐる無数のいのちの流れに合流する。コズミックなダンスをひととき踊る。「とき」がそこでは「とわ」になる。