近江アルス おうみ父ぁるす
オープニングの映像は、淡海で踊る森山未來だった。
彼に長い青竹を一本渡したと松岡正剛は語った。そして「まれびとになってよ」と伝えたという。
あの竹は依代であった。それを携え、抱き、依代そのものとなって、琵琶湖に立てた。打った。掻き混ぜた。
映像はミュートしてあったけど、ビュンビュン、バチャバチャ、チャポチャポ、ヒュオーン、ドボン、ヒタヒタ、、、音も鳴っていたはずだ。
琵琶湖の真ん中に船が停泊した時、湖から聞こえてきた声を思い出す。
わたしたちはずっとずっと昔から満ちているのよ。
待っているのよ、とも聞こえた。多声だった。
松岡さんは「父なるもの」について話した。近江を思うとき、列島の骨盤の位置にある近江を思い描き、琵琶湖は羊水なのだと直感的に思う。有名な河野裕子さんの歌
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
母胎を感じてしまう。母性や母語や、母国、母なるもの、という連想が働いてしまうのだ。
しかし、そこに行き交う父なるものの存在が常にあったということなのだろう。近江アルスで松岡さんは、最も豊かな母なるものの風土で、もっと言えば淡海という宇宙、カオスに、何かを屹立させるつもりのようだ。インチキではない、曖昧なままではない「父なるもの」を立てていくということなのだろう。グラウンディングできるトポスと、どっちも大切なのは知っているのに、父なるものがあまりにもいかがわしく、嘘くさく、信用できないものが溢れているので、僕自身も含めて蔑み、あるいは目を逸らしすぎていたのかもしれない。僕にとって父は、折り合いのつかない人だった。しかし、ふとした時にちょっとしたやりとりや言葉を思い出す。キャッチボールしたことや、もう会えないかもと思った時のことや、大きな手を、後ろ姿を思い出してしまう。
ゲストの佐藤優さんは、父なるものとの松岡さんの葛藤と近江アルスでの競り出してきた覚悟とをズバッと突いていたように思う。
「ニライカナイ」のように水平軸の母型的な神話に対して「オボツカグラ」という垂直軸の神話が琉球にはあったという。松岡正剛は近江にいよいよそれを持ち込もうとしている。近江だけではなく、日本に”another real style”を見ようとする時、そこにおぼろげながら確かにあるオボツカグラを降ろす必要がある。それが依代であり、ファロスであり、床柱で花で石で茶で能舞台でもあった。そこにやってくるのはマレビトなのだ。彼らの訪れによって別様となり、別格となるのだ。世阿弥の複式夢幻能や芭蕉の旅のように。多様、多重な、ジェンダー以前の、カオスヘ飛び込み、あるいは帰還し、我をなくし零となり、嬰児となって新生を果たす、それにはうちなる太い槍が必要なのだ。「私に、刀をくださいな」なのだ。その覚悟、核心、真が立つか立たないか。仏はどこにおわします、ということなのだ。ばあ、するということなのだ。
言葉少なな直入さんの松岡正剛を見る目は、慈愛に満ちていた。父なる母性というものもあるのだと思わされた。かつて白洲正子さんの本に絆されて、家族で巡った近江の十一面観音様たちが上目遣いをしたら、あんな目なのではないだろうか。それにしても今回の近江アルスではカメラワークが飽きさせなかった。人の貌というのは別様の花だと思った。風に揺れ、雨に濡れ、陽に笑う。人のふるまいもそうだ。いつも生命は時空の渚に現れ、洗われている。ダイナミックな移ろいを感じさせたのは演出のおかげも大きかったと思う。
明日は新暦端午の節供。
主に男の子の節供。花菖蒲や杜若を飾り、ニオイショウブをお風呂に浮かべる。
花菖蒲の花は兜、蕾は鉾、葉は刀。ニオイショウブは香とともに邪なものを祓い、清める。
花も香もマレビト。時を経て、やってくる。ほんの一瞬、彼方から。ずっとずっと昔から。
天と地を結ぶ柱となり、めぐり続けている植物が永遠の師となりそうだ。
近江は待っている。琵琶湖はそう囁いた。花綵列島はずっと待っている。「藝」という文字は苗を移す形だという。生命を新たなところに植えなおし、生かすことだ。人の心の中にさえも。みどりの虹色をした艶やかな魂がそこに宿る。立てる技を継いでいこう。
2024年4月29日、ゴールデン・ウィーク開幕。
青ぐろい海(森)に光が射すとさっきから何て騒がしいのだろう。
昏き器に万象の鐘を鳴らそう。