2021年3月からの花手水。桃の節供の頃からお正月まで。
赤坂氷川神社さんでの花活け教室「はなのみち」の生徒さん有志と一緒に、花の連句「めぐり花」の方法で続けています。
外部で春夏秋冬途切れることなく花を活けることは案外ないもので、たくさんの学びがありました。
一つは、参拝にお見えになる方々の声が聞けること。
良い花が立つと、手水で手を洗った後顔を上げたときに、朗らかな笑顔を見せてくれたり、その人の中で何かが動いたことがわかります。対話が始まったり、反応が見えることは、生徒さんには最も良い学びの場。
そうして、そんなやりとりの場が、さらに場所を清めていってくれたこと。そもそも聖地である境内ですが、花が立つことで磁場が生まれ、めぐりがよくなり、清々しい場所になっていく、そんなことはあるものだとまざまざと感じています。
この花手水舎を寄進したのは氏子の芸能組合とか芸者さん、料亭や芸能に関わる皆さんでした。およそ75年前。以前花を活けていたら鳶の頭が懐かしそうに手水鉢を眺め、だいぶ減っちゃたなあとこぼしていました。色々な見方はあるでしょう。遊女の境遇などを思い合わせると、複雑ではありますが、その世界は江戸の粋な文化の一端を担っていました。節供のしつらえや、茶の湯や、活け花もそうです。お手入れに行ったとき、今は亡き、その世界の御魂が光となってやってきて喜んでくれていることがわかる時があります。
活け続けさせて頂いたからこそ差し掛かることができる。そうしたタイミングというのがあるのでしょう。
特に七夕以降、秋が立ち、いろんなことが落ち着き始めると、活けた植物たちがすっと馴染んでいくのを見ました。大事にされている、そんな感じで「なつく」ようなのです。生徒の皆さんが慣れて上手になったこともあるのでしょう。
グローバリズム資本主義を超えているところに成立しているこうした振る舞いが大事なのだと思います。神社はそうした振る舞いの「辻」でもあり、拠り所。参道は「産道」でもあるのでしょう。