Flower(花の為事)

新嘗祭 死ぬとは場所になることつぎのいのちの


田園調布にある“いずるば“で「音と光」によるレクチャーシリーズの第一回は人類学者の竹倉史人さん。タイトルは「宗教とは何かー未来の人類、未来の学問のために」。

「宗教」とか「スピリチュアル」というと、何やら変に胡散臭いと思われるようになってしまった。

僕が生業としている花を活けることや、庭を作ることは素朴で素直な、植物や大地、自然という他者に対する祈りからはじまる。当たり前のことだろう。土に生え、そこから切り取られた木や花が手元にやってきてくれる。最後にやってきてくれるのだ。この「偶々(たまたま)」には、全てが入っている。それぞれの道行の、生命史の旅の果てに出会っている。手にしたいのちの光は活け手の身体を通って「いまここ」で、あるべきところに流れ出ていく。僕の手にはその香り、儚くもたしかな、手触りが残る。あやうい揺らぎも、俯いた表情も、ここでいいという、安らぐ思いも、残っていく。そこで僕には何かが成就したそんな感覚が残る。「活ける」は「埋ける」とも書く。場や空間にはいろんな見えないものがある。気を整え、浄める力が、花にはある。
 


「音と光」。花は光、花は無限からのメッセージをいつも伝えてくれる。そう、いつも。竹倉さんや聴衆の皆さんの視界にこの花はずっと入っていたはず。どんな音を聴かれただろうか。どんな光を感じただろうか。
 

 そういえば明るいうちの窓からの陽光は、花に届いて、一緒にダンスしているようだった。たくさん見にきてくれていた。竹倉さんも話しやすかったはず。見方の問題なのだろう。僕にとっては、こんなふうに捉えた方が、生きやすくなる。
 

 植物と人、仮面を剥がせば同じいのち。分けて考えすぎているようにも思う。呼吸するだけで、すでに彼らの体を通ったものが入ってきて、僕らの体をどこまでも満たし、巡っている。精神にも肉体にも、混じり合っているのだろう。

写真;
Shinichi Tsukada