花菖蒲や燕子花をずっと見ていた。舞台に合わせて開花や蕾が、ほどよく混じるように、ギリギリまで光を当てたり、温度の低いところや日陰に移したり、、、本番を客席から見る時はいつも自分の子供を見るようでドキドキするが、花たちかはお構いなしだった。青紫の残像はしばらく僕の目に焼き付いて、太陽を見た後のように視界を染めていたものだ。
美しい舞台でした。
青は他界の色。another worldの色。
あはいの色です。あをしま(青島)といえば古来葬送の地だとされています。
冥界との境。だから春の色も青なのですね。
大きな舞台、青黒い舞台は宇宙か深海か、いずれにしても光と闇の薄い膜に浮かぶ生命が何かを願って踊り舞い、歌い、声をあげ、日々の聖地に立って、生きとし生けるものと共に、刹那を生き継いでいるという。そのことが舞台で美しく切なく繰り広げられたと思います。
笑うことや、身体や表情の綺麗さや、縁の豊かさ、存在の不思議、全部ひっくるめての生きることの強さを内包した哀しさ、愛しさ。
Bridge
というテーマで、僕がお話伺ったときには衣装の色も決まっていましたので、
花の種類は季節に逆らえないため、すぐに決まりました。
小さな青が集まって咲くという意味を持つ「あぢさゐ」
それに、あやめ、杜若、花菖蒲、、、藤、楝など。
みな端午の節供で用いられてきた花です。
紫陽花はまだちょっとタイミングが早く、藤は遅く。
楝も市場にはほとんど出回っておらず。
Bridge、橋といえば水。季節も皐月、水にゆかりのある花菖蒲、杜若を最終的には選びました。ヒカゲノカズラは今回も登場。芸能の祖とも言われるアメノウズメノミコトが天岩戸のくだりで襷掛けにしていた植物ですから、うんさんの舞台では毎回使いたくなります。修験とも繋がりの深い天台、真言のお坊さん達も儀礼ではお使いになります。ダンサーと絡めるかるい構造材として青竹も。
最初は風化した木の根っことオーガスタの枯葉が、次の命の場となるべく鎮まっています。踊りや舞、声明はそこに命を呼び起こし、ダンサーによって神輿として担がれて登場した屋代の花が依代となり、いろやいのちがもたらされ、花の娘が運ぶ井戸(井形に組んだ青竹)から水が溢れ、八つ橋に見立てた竹の橋にも、花菖蒲や杜若が咲き、この世とあの世に橋が掛けられ、さらに生命あるもの同士でも、さまざまな橋が渡されていきます。
花(植物)は、もともと母なる大地に根ざしています。
すでにして即身成仏。
木の根も、ヒカゲカズラも、花菖蒲も、それぞれ舞台で神様のようでもありました。
舞台は聖地だと思います。
舞台の袖は胎内だと言っていた人がいました。
ダンサーたちは何度でもそこから飛び出し、
世界へ生まれ変わり続けていく。
遥か彼方からの常若の波を浴びて、観客も生まれ変わるのでしょう。
触知できない冥界との接点、ひとときこちら側に開かれる聖地、それが舞台なのだと思いました。それは祭りのトポスとしての花と、その儚さにとてもよく似ています。
ゲネプロ 写真;Hal Kazuya