10年目の3月11日。かつて「季譜 ーflower notes ー」を1年計四回ご一緒した平本正宏さんのピアノコンサートで花を活けた。花は、黒いピアノと一対とし、小さな「もり」=アイヌ語で「静かな 高いところ」をイメージ。同時に「もり」は「盛り」「茂り」でもあり、「萌え」て「燃える」ものでもある。聞こうとするものにはそのポリフォニックな音楽が聴こえる。
花はゆっくりした海嘯。音のない、静かな津浪。
植物は花の先の先まで、微細な水脈を持ち、一皮めくれば水の身体。花弁の先から目にほとんど見えない飛沫がほとばしる。
素晴らしい演奏で、満たされつつ、浄められた感じがした。あの時のことを花を見ながら思い出していた。
10年前も桜は咲いていただろうに、色を感じず、喜びもなかった。
春がまたやってきて花が咲くということは、命あるもの同士だからこその逢瀬で、あの時波に攫われた人たちは、もう見ることはできない。まさかお花見ができなくなるなんて思っていなかっただろう。残された僕たちは桜をみて、彼らのことを想う。花はずっと「よすが」としてそれぞれを繋いでくれる。
あえてピアノと向かい合うように、やや荒ぶった花を活けた。植物は一皮剥けば水脈が花びらの先まで届く水の身体を持っている。その先に花が波飛沫のように咲く。静止した津波をイメージした花。
それをピアノが鎮めてくれて、祈りの森になっていった。やがて鳥や動物たちがやってきて、記憶を宿した温かい森に変容していくだろう。
海嘯、原発、今回のコロナも見えない海嘯です。近代が失わせてきたものが無数にある。しかし、失うことで見えてくるものがたくさんある。大事なものを深いところで取り戻していきたいとどれだけ思えるか。社会全体が不安に陥っている時、今回のような想いで作られた場は最も大切だと思う。