blog「flow-er」

Green room

『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』(監督 ヴェルナー・ヘルツォーク 2019年)於:岩波ホールを観に。2022年7月29日に閉館となる岩波ホールが最後にかける映画がこの『歩いて見た世界』となる。

買い求めたパンフレットの最後のページに、発行元であるサニーフィルムさんのメッセージが載っている。

ラストシーンで、自らの死を悟ったチャトウィンが、物語の中で自らの死を探すように書いたとされる「The Songlines」の最後の一節を朗読しながら、カメラは木々に囲まれた緑のトンネルを進みます。そこには小川が流れ、鳥の囀りが響き渡り、木漏れ日が差し込んでいます。カメラが止まるとその先に緑のトンネルの出口が見えます。このシーンには終わりでなく始まりを感じます。
この映画は岩波ホール最後の上映作品ではありますが、個々に宿るエキプ・ド・シネマ(映画の仲間)の最初の上映作品となることを願っています。  サニーフィルム

この映像シーンは幼い自分が遊んだ里山の林によく似ている。向かって左側に開けた野か畑があり、そちらからは明るい光が漏れてくるのも似ている。知っている森の道はもう少し狭いが、右側に流れがあった。木漏れ日の降り注ぐ中、奥へ奥へと向かう。所々に気になる場所があって、歩いたりしゃがんだり、空をみあげてひとときを過ごしていた少年時代。しばらくの間行きつ戻りつして包まれることで、僕は何かをその場に落とし、木々や草や土や水音によって、蟠ったものや滞っているものを引き取ってもらっていたようにおもう。そうしてまた、別にそこまで嫌ではなかったけど、なんとなくはぐれているように感じていた学校とか社会に再び赴いていたような気がする。みんなと遊んだ帰りとか、日曜日とか、一人でそこへ出掛けていた。そこへ行くというより、帰り道に立ち寄ったり。そのまま帰るのがちょっと勿体無い、そんな時に寄る好きな場所はいくつかあった。場所はみんな似ていて、ちょっとづつ違う。多くは山の頂きへと続く沢沿いの小さな森だった。

 ふと、息を抜きたい、はぐれた感情をなだめてくれる。そういう場所が人には必要なのだろうと思う。ひとりの「ひと」という存在になる時間でもある。母胎のようなその時空には皮膜がある。緑の皮膜だ。サーファーたちの言う幔幕に覆われたグリーンルームと言ってもいい。緑のドームでも良い。

 戻るべき場所に帰るとき、この映画の最後の映像のような「緑のトンネル」を潜っていく。そこからこちらに戻る時も「緑のトンネル」を通過する。

「緑(みどり)」は闇と光が出会った瞬間に顕れる一瞬の色調あるいは現象だ。
故地(懐かしい場所=home)は、実際の場所であってもなくても、緑のドームで覆われている。その場所をまだ知らないかもしれないが、差し掛かるとそこが大切な場所だったと懐かしい気持ちになる。未生の胸中にある山水。それが故地だ。
 地球が大気で覆われているように、奥にある大切なものを守るように緑のゾーンはある。入る時も出る時もそこを通過する。
 緑はつまり永遠の再生の色なのだ。まるで月の満ち欠けのように。
 そのため人は若い芽である緑を言祝ぎ、エバーグリーンを依代とし、永遠の再生力に肖ろうとしてきたのだろう。

 

 かつてはノマディックに季節と共に歩き続け、移動してきた人類。
 定住してからの人類は、季節と共に安心できる場所を目指して、自らの足で移動することをしなくなった。その移動は自分達が生きる土地のことを、そうやって旅してきた先祖のことを、今を一緒に生きる生命との繋がりを、心身に刻みつけるものになっていたはずだ。点と点を結ぶ旅行ではなく、道を塗りつぶすように踏破し、身体に風景を通過させていく旅。未知を潜り続けることで身体が出逢っていく見えないものに触れる旅をしなくなった。あらかじめ多くの情報によって時間によってお金によって、リミッターのかかったままの旅行がほとんどなのだろう。

 定住を始めた人は、この旅を日々に取り入れようとした。仮の場所を作り、故地を引き寄せ、旅を日々に織り込める場所を生み出してきた。故地へと戻り再生する場を引き寄せたのだ。定住し始めたからこそ、失われかねないものに触れる日常の小さな旅や祭りが必要だったのだ。

 その遡行の道行きの模型の一つが御嶽であり、神社の杜であり、そこここにある小さな社や祠でもある。お寺もドームや教会もつくりはとても似ている。人は聖地を縮小して引き寄せた。

 茶道に見られる座のシステムは、まさにこの道行を濃縮した儀礼だろう。身体スケールまで縮小された空間に招き入れ、そして狭い胎内へ遡行し、自らを脱却することで再生を果たすものだ。水や季節や風の最中に身を曝す、黄泉への遡行が濃縮された型を持っている。飛石の打ち方は連句と同じだという。飛石を渡りながら、足元に緑=水を見る、水は深層意識そのものでもある。静かながらも深いその流れに意識を脱いで(=禊)呑み込まれていく。水=緑と心身は溶け合っていく。そうして小舟のような茶室に潜り入る。花が活けられている。お軸を見あげる。そこは胎内、神話の時間が流れている。息吹や鼓動を感じ、耳が目になる。待っている。大祓詞のように水は次々移し替えられ、穢れを持ち去り、やがて攪拌された渦の、泡立つ湯を両手で抱き、みづとみどりのないまぜ=命の水である茶(green tea)を体内に流し込む。
 同じ水から点てられた茶を喫することで、同じ胎内から蘇生した神話の時間で清められ、その時間を孕む身体となる。
 道と名のつく芸道は皆、道=tao、見えないものに触れる旅である。聖地と言っても良い。居ながらにして聖地に触れる。

 時にはその場所は、一本の木や花になることもある。一輪の花も、一人の人も、光る命を宿す聖地である。花を本当に見ると、花と人の境は無くなってしまう。花が世界と混ざっているように見ている私も溶けてしまう。

トラブルとトラベルは語源が一緒だとよく言われるが、聖地を巡礼することも、山伏が聖なる土地を踏破し、法螺を立て、読経しながら山と一つになっていくことも、歌人たちのように風土に歌いかけ、地霊に語りかけ、一挙手一投足全てでもって今という生命の最前線で土地の魂に触れ、あっという間に過ぎ去っていくことも、自らの故地を確かめ、その身と心で彼らに触れ、自らを賦活し、刷新していくことになる。歌にしてもおどりにしても、法螺を立てることでも、その全身が泡だつほどの細胞たちの湧き上がりを、ざわめきを道となった身体を通してリリースしていくことが、宇宙を未来へとつなげる小さな光となる。

僕が幼い頃歩いた里山の林に戻る。川に沿って緑は続き、高速道路ができる前は川上から川下へずっと川沿いを歩くことができた。林は切り開かれ、木々は減り、林は痩せて歯抜けになっていった。いくつかのバイパスに寸断されてしまったから、通して歩くということもしにくい。繋がりは見えなくなる。
身近にあった林は生き物の気配に満ちていた。沢にも、落ち葉の下にも、木々の虚にも、小さいものたちが満天の星のようにさんざめいていた。夜に散歩するのが好きだった僕は皮膚で音を聞いて、夜の林も見ていた。しかしそれも狭まり、彼らのそれぞれの環世界とその距離を維持することが叶わなければ逃げるしか、あるいは滅びるしかない。

緑なす風景あるいは故地、その喪失への怖れから祈りは生まれたのだろう。芸能や芸術はその奥に祈りのないものはない。祭も節供もそうだ。日々の暮らしの中に僕たちはその風景を織り込むことを好んだ。ちょっと花を活ける、季節の移ろいを感じる建築や設え、しきたりなど、そんな風景は折り畳まれている。そして、いろんな階層にそれぞれの神々が立つ。瞬時にそこに立ち現れる。虹色の光が胸中に満ち、それは外の光とつながる。命そのものが実はその「緑なすもの」なのである。私たちの内側が不可知の世界に半分入っている。脈々と受け継がれてきた命の輝き、その最先端に今を生きる私たちがいる。その先端では闇と光が渦巻きつつ息づいている。内と外が溶け合い流動し合う今を生きる命。決して振り切れない影。その影はお陰様の影なのだ。目に見える風景や風土は、ものは、そのまま仏であり、神であり、精霊たちであり先祖であり、天使でもある。

『The Songline』の本文もとても美しいものだが、そのナレーションの中で最後の映像を見ながら、僕はかつて見た夢のことをも思い出していた。                  
 それは森の奥に在る廟だった。最愛の人が祀られている。その部屋は奥の方にあって小さかった。光が満ちていた。いくつかの祭壇が立ち、彼女が明るく笑う写真が立てられていた。その笑顔は光そのものだった。祭壇は紫の天鵞絨で覆われていた。壁は緑色をしていた。それを僕はどちらから見ているのかわからない。死の側からか、生きてそこに行ったのか。死の側から行ったのかもしれない。そういうこともあり得る。生の側からかもしれない。僕の死が近づいて、先に旅立った彼女の廟を訪れたのかもしれない。でも、明るい笑顔で笑っている写真を見て、とにかく安心した。安心して嬉し涙が頬を伝わった。涙を流すのは何年かぶりだった。

チャトウィンは、乾いた赤い大地を歩いた。しかし聖地をめぐる中で、心はいつも故郷のエーブベリーやブラックヒルズを懐かしんでいたように思える。

ドリーミング・トラック、あるいはソング・ラインは故地への道行であり、人が生き物として生きる土地や風から生まれた、常に自分を新しくし、根源に触れる方法の一つ。巡礼や、絵画や、作庭や、茶道や、花道や、歌枕や物語や、みんなその多様な道の一つだろう。風土や風土を通しての必要や美意識の差分はあり、現れ方が異なるとしても、根っこはとても近しい。
「ひと」として、この世界への生じ方亡くなり方は同じ、触知する五感や五体は、大きく差はない。
 他の生き物に比べて劣っている感覚や器官も多い。しかしこのネオテニー的な進化こそ、人に心をもたらし、不安や希望を抱かせ、イメージを形にする力を、連想する力を、物語る能力を持たせることになったのだろう。

おわりの時とはじまりの時
 闇と光が出会う時 光が闇に帰る時
 つまり空海のしたためた「生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死んで死の終りに冥し」の「暗く」あるいは「冥し」のその終わりと始まりのあわい、時空をくぐり抜ける時、人が見る世界は緑だということ。
 ただそこに近づくことが、どこかで失ってきた片割れに、触れ得るただ一つの機会なのだろう。それをしないでいると、人という命の働きは鈍り、くすみ、やがて亡者のようになってしまう。そうやって停止してしまうことは生命にとって死を意味する。

チャトウィンは、だからこそ歩き続けたのではなかったか。