花は大地の歌である。
花咲くように人も歌う。
花の座 伝芭
歌と花
歌には調べがある。
文字が生まれる前、人々は鳥のように歌っていた。
花もまた歌う。身体を楽器のようにして、その調べが鳥や花のように美しくあることを願っただろう。
花のようには咲けない。代わりに人は話すのだ。
ハナとは花だけを指すのではなく、何かの兆し、萌し。
花は先端に咲く。話すは、自らを花のように開くこと。放つこと、ファッションやメイクもそうだ。人は花のように、そうやって咲く。花咲くことは離すことだ。自らを投企すること。間を生み、間を埋めてくれるものヘ。それは恋である。
そもそも花は大地の歌である。
その歌を人は聴いていたはずだ。
天と大地が呼応する、お互いに呼び合うところに花は開く。だからそこには巡ってくる奇跡を感じ、
目に見えない力の顕現にマジカルなものを感じた。天と地の相思相愛。
人もまたおなじ。命は宇宙と地球という星の間の子。
季節のめぐりの象徴でもある花を歌い、寿ぐことで、めぐりの順調な運行を促す。
花を歌い、花の思いとなってめぐりの喜びを歌うことが予祝となる。
つぎつぎ咲く花。一つ一つが世界の開闢を告げるように開く。百家争鳴。壮大なスーパーノヴァにも似た音響が谺しているはずだ。
その音楽を、色彩を、香りを手触りを引き寄せ、アンサンブルして、人は花を立てる。花や季節と混じり合い、アンソロジーとして織物のように。
依代は人の祈りであり、伺いを立てるものであり、奉るものであり、応えを聴く装置。
自然をまねび、自然から離れる。それすらも原初の響きとみて、花を立てることは背信かもしれない。断たれる命。大地から切り離すこと、残るものがあること。それはこの世の関係を新たに前に進めることでもある。
別様の物語を生む人の存在する理由はあくまで「異端」なのかもしれない。
半分は植物の、もう半分は動物の、あわいの生命としての人。
草木の風興を知り、光の景としての、エロスとタナトスな花の精を、生を、性を、聖を、そして星を清冽を、成=誠=真を、片割れが片割れに語りかけ、対話し 相互貫入し、人と花の間に別様の花野世が生まれる。
初回は「つつじ うつぎ あやめ」について、歳時記や物語ほか文芸に見られる表現により、それぞれの植物に対する見方を拡張させ、めぐり花で実際にその植物を活けることでその手触りや香りやすがたと情緒や身体をそわせていった。花を活けてめぐる時の音楽は毎回セレクトしていただく。
花材:花長
協力;Sansa